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はじめに

(『ギリシヤ悲劇研究 1』(1958年刊)「偶然と必然のたわむれ・まえがき」より抜粋)

久保正彰

 ギリシャ悲劇研究会の研究活動を通じて、われわれが直面したもっとも基本的な問題は、作品の意味内容についてのさまざまの解釈や研究を、どうすれば「劇」という有機的な綜合にまで高めることができるか、ということであった。(中略)
 われわれはつねにこう問いつづけた、「この劇形式、この劇構成(プロットの重ねかた)でなくては表すことができないものは何か?」(後略)

研究会の歴史、性格、目的

(『ギリシヤ悲劇研究 2』(1959年刊)掲載「ギリシャ悲劇研究会と古代様式」より抜粋)

細井雄介

 研究会は同好の学生数名の会合に始まった。彼らはすべて演劇に興味をもつ東京大学文学部美学科の学生であり、それぞれ、演劇の諸分野をおのれの研究領域にしようとするものであった。このことがやがて共通目的をたてて研究会活動を開始する契機になったのである。
 同一学科の学生としてしばしばなされる寄り集いに何らかの目的を与えることが提唱され、その後の数多い会合の際、ひとりひとりの自己主張はいつも烈しい討論を招き、その討論を通じて、すべてのものが、演劇の本質を究めることを念願とし、就中、悲劇性の問題を手懸りとしてそれを果たそうとしていることが明らかになった。
 そして、悲劇及び悲劇性の問題に捉われている者としてギリシャ悲劇がいつも念頭になることも明らかになったのである。ところでそのギリシャ悲劇とはどのようなもので、どのような性格を持ち、どのような意義を持つものなのか。こう改めて問われた時、すべての者は口を閉ざさないわけにはゆかなかった。それぞれ数篇の翻訳戯曲は読み、数箇の論著には目を通していたが、誰ひとり鋭い問題意識を持って系統立った研究をしているものはなかった。この時の無知の自覚とそれまでの烈しい討論を呼んだ情熱とがギリシャ悲劇研究会を生んだのである。

 研究会発足は昭和32年4月であった。発足までの諸討議が研究会の目的と、創立直後の活動を規定した。すなわち会の目的は「ギリシャ悲劇の研究を通じて悲劇及び悲劇性の問題を究明し、演劇の本質を飽くことなく追求し、そこより新しい演劇の可能性を拓く」ことにあり、当面の活動は「ギリシャ悲劇とはいかなるものであるか」をできるだけ系統的に知ろうとすることであった。

 研究会の最大の跳躍期はギリシャ悲劇の上演を目標とした時であった。
 研究会設立後、会員の全努力はギリシャ悲劇についての知識を獲得し、それらを整理してゆくことに向けられた。だがこの仕事は進むに連れて次第にわれわれを萎縮させてゆくものであった。予想していたとはいえ、ギリシャ悲劇に関する書一冊を繙けば、無数の疑問は絶え間もなく列記されており、同時にまた無数の参考文献が尨大な表となっているのである。(中略)
 この時、この難関を越えさせてくれたのはギリシャ悲劇の作品自体であり、もう一つ指導教官のご忠告であった。あれこれの注釈、解釈、評論がなくてもわれわれを魅きつけずにはいない悲劇書作品の魅力、真内容は一体何であるか。個々の作品を読み終えた時の大きな感動という素朴な、しかし力強い体験は、改めてわれわれに研究の真の対象であるべきものはまず第一に作品でなければならぬということをはっきりと教えてくれた。教官の御忠告は、現在のわれわれがなすべきことはギリシャ悲劇を日本で上演してみることではないか、従来なされてきた諸研究・学説を実証するギリシャ悲劇の実際の舞台こそ待ち望まれているものであろう、という意味のものであった。この御忠告は前の単純素朴ではあろうとも力強い体験と相俟ってギリシャ悲劇を実際に上演するという大胆無謀に思われた夢を育んでくれたのである。(中略)すなわち研究会の閉塞状態を救ってくれたものは、一言にしていえば、ギリシャ悲劇は劇作品である、まず第一に舞台芸術として取り扱われるべきものであるという自覚に他ならなかった。この自覚とともに、われわれの当面の根本問題は、個々の作品の意味内容についてのさまざまの解釈、研究をいかにして劇という有機的構造の理解に役立たしめるか、という点に移ってくる。その場合われわれは上演を目的とすることによって絶えず作品と密着していることを要求され、そこに生まれる貴重な体験と想像とに確信を持つことによって無数の解明解釈に対しても独自の主体性を保つことができ、およそあらゆる活動に不可欠の創造性をも十分示すことができるはずである。連続的に開かれた研究会総会は常にこの上演問題を議題に取り上げ、遂に七月中旬、会員一同、ギリシャ悲劇の上演を現実化する努力を尽くすことを決定した。(中略)

「古代様式の復元」
 われわれが「古代様式の復元」を唱えた時、念頭にあったものはギリシャ悲劇の原曲に対する信頼と、それがかって上演された時確実に用いられたと考えられる極く僅かな外的条件ばかりであった。「古代様式の復元」という言葉が殆どすべての場合紀元前五世紀アテーナイで行われた悲劇(それが想定されたものとして)への「復古的上演」として受け取られているのであるが、言葉足らずのままにわれわれが表現し意味していたことはそのような「復古的上演」とは全く異なるものだったのである。われわれは「ギリシャ悲劇の古代様式」という語を、「ギリシャ悲劇の表現はかくあらねばならぬとするギリシャ悲劇固有の内面形式の外化された様式」と考え、その意味で用い、(中略)
古代様式を決定すべき根拠を殆どただ一つギリシャ悲劇の原曲にのみ求めてゆくという態度を守っていた。(後略)